本ページは、当山に伝わる資料をもとにした原文史料を、できる限りそのまま掲載しています。
【鎌倉時代】1319年~ (元応年間)
唐戸湾が埋め立てられる遥か昔、浜辺に流れ着かれた御木仏(おもくぶつ)をご安置するため教法房浄信(きょうほうぼうじょうしん)によって創建 (当山由来書より)
【室町時代】1494年 (明応3年)
中興の祖 順誓(真宗第一代)
摂津多田の庄(現在の川西市)多田満仲(清和源氏)の子孫多田義忠が蓮如上人の御化導により御染筆六字名号(虎斑の名号)を拝受下関に入り中興の祖となる(当山由来書より)
◎ご本山(西本願寺)関係の古いものでは、親鸞聖人・蓮如上人から託された[九字・十字合幅名号]・[六字名号]・[ご絵像]・[虎斑の名号]などが残っております。
【安土桃山時代】1592年~ (文禄の役)
『教法寺会館の所に居た大森の店から関の海が眺められた文禄の役太閤秀吉がこの大森の店に来て硯工を見又海の景色を称して、硯海の歌を賜った。』当時は未だ隣の教法寺はなく寺の地の所は雑木がなして居た大森の姓は、そこから附けられたものである。名産赤間硯はこの西の端町で生まれたものである。 (s49.12.1発 関の町誌上 /復刻郷土物語/伊藤房次郎著より)
((文禄の役の折には毛利秀元公がお立ち寄りになられていることや会館が大正時代に建立されている事から、教法寺の表記は、境内地教法会館あたりを指すと推察される。))
◎ 1592年~ (文禄の役) 毛利秀元公(長府毛利1代目/元就の孫)
文禄の役(朝鮮出兵)の折お立ち寄りになられた際数々のお礼の品をくださられたが戦災でほとんど焼失 している。当山由緒書(明治2年筆)より
【江戸時代】1601年(慶長2年)
◎木仏と寺号を本山より賜り下関地方で真宗の草分け的寺院である [釈准如 慶長六年 八月二(旧)五日 (江戸時代) 願主 教法寺 正誓 右木仏者 仏照寺下 長州赤間関 正〇(誓) 令懇望之間免之者也 取次頼廉] 本山木仏の留より 本願寺第十二代准如によって木仏を免与、木仏と寺号は同時に免与されるものであるため、当時の記録によると下関だけでなく長門地方でもっとも早く真宗正式寺院として公認された寺院である。 (本願寺史料集成 同朋舎1980年 /真宗教団の組織と制度 千葉乗隆) (H21.3発下関市史 藩制~市制施行編より)
◎長府毛利家輿入 ・六代目萬随に長府のお殿様(毛利匡広公・長府6代)ご媒酌で、国元の奥方(師就公・長府7代の生母)の妹君がお輿入れされた。そのご縁で毛利匡広公を始め、毛利家6人のご位牌のおもりを頼まれたこと、後には、【在三ケ寺(長府功山寺・笑山寺・日頼並寺)並みの寺格を許されている。 当山由緒書(明治2年筆)より
・6代目のご縁か、7.8代目あたりに萬随の室(知奈子の妹)の実家下村家より萬随の室弟【高直(置)】の子息、二女と二女寂後三女がお輿入れされています。長女は亀山八幡宮へお嫁入されています。 (下村家系図より)
◎毛利家関係で現存していますのは
・[お輿入れ道具の一部]
・毛利秀元公が文禄の役(朝鮮出兵)の折に立ち寄りになられ数々のお礼の品をうち[細川玄旨の短冊]
・沢庵宗彭和尚の書状を差し上げたお礼に頂いた[毛利元義公 御染筆御画讃](長府11代藩主)
の3点である
1826年 (文政9年)
◎シーボルト江戸参府の途中下関に10日間滞在各地を巡回 シーボルト「江戸参府紀行」のシーボルトの見た下関の神社仏閣の叙述に教法寺の表記が見られる (H21.3発下関市史 藩制~市制施行編より)
◎1863年(文久3年・8月16日) <教法寺事件>
奇兵隊が先鋒隊の陣教法寺を襲撃、奇兵隊隊士金子文輔日記によると奇兵隊隊士(勇士/前田砲台)宮城彦輔(御使番/殿様の命の伝達人)の毛利元徳公巡回計画(奇兵隊優先策)により先鋒隊(藩の武士/壇ノ浦砲台)の反感をかい抗争が勃発したとされる。 病で伏っていた蔵田幾之進が重症を負う。この抗争での死者は出なかったとされている。この後宮城は責任を取り切腹、高杉晋作は罷免、奇兵隊は、秋穂に移転させられている。 (H21.3発下関市史 藩制~市制施行編より)
((本堂/書院焼失(太平洋戦争)前を知る住職によると抗争のあったご本堂の天井や宮城氏が切腹をされた書院の床の間には血の跡が残されていたと言う。)) (焼失前を知る 住職 故多田了道談)
【明治時代】1889年(明治22年4月26日)
第一回赤間関市会が 西之端町 教法寺で開かれた(S33発 下関市史 市制施行以後編より)
◎秋田商会(1905年創業) との関係
秋田商会は日露戦争頃に創立され、材木問屋、海運業などを営み大陸にまで手を広げた下関を代表する企業であった。 秋田家初代は、従兄弟である教法寺住職を頼って下関に来たと言われている、当山文献等は戦争で消失どの代のことか定かではない。 (資料提供 ノスタルジック海峡資料・下関市施設観光課)
【大正時代】大正12年 (1923年)
◎親鸞聖人立教開宗700年記念[教法寺会館]落慶(当時では珍しいアメリカより輸入したブロック建てである。) (第15世住職多田了道談)
【昭和時代】1945年(昭和20年6月29日)AM:1:10
焼夷弾による空襲により本堂全焼
(総務省一般戦災の記録当時住職多田了道談)
◎7月2日教法寺会館も被災、 ブロック建てであったため全焼はまぬがれ一部崩壊、補修。戦前より現存する建物である。 (第15世住職多田了道談)
◎1949年(昭和24年) 多田行栄(ぎょうえ)
・坊守(ぼうもり)下関市連合婦人会初代会長就任
・1953年(昭和28年) 山口県連合婦人会会長就任
・1954年(昭和29年) 6月17日皇居勤労奉仕の為上京中に急遽(その折皇居より頂いた銀杏の木が玄関横に植樹されている。)
◎昭和43年11月24日本堂落慶
戦後復興のなか門徒中念願の本堂再建
◎山陽電気軌道敷石(サンデン交通の前身)
当山、山門より玄関までの敷石は戦後復興の折、筆頭総代林家より当時運行していた路面電車の敷石を寄付頂いたものである。 (第15世住職多田了道談)
【平成時代】2011年(平成23年) 教法寺彦島分院(彦島江の浦)再建
◎フェニックス
本堂前にそびえるフェニックスは、植樹されて40年(2012年現在)になる。戦後復興の折、彦島西山地区 植田家より寄付されたものである。 ((2011年7月19日放送 テレビ朝日【ちい散歩】(地井武男さんの番組) 古くから栄えた港町 下関市・唐戸さんぽの回で教法寺を訪問、立派なフェニックスを発見し、自身の40年前を振り返ると言うシーンの撮影がおこなわれた))
◎2012年(平成24年) てらこ屋灯炬(とうこ) 開講
現代版寺子屋としてポーセラーツ・てらヨガ・他各種レッスンを開始し、レンタルスペースとしても利用される。
◎2013年(平成25年)
下関市によるお寺の案内版設置 お寺の歴史に触れてもらいやすくなる。 (下関市観光課)
◎2017年(平成29年) 新納骨堂【香璋殿】(こうしょうでん)建立
◎2021年(令和3年) こども食堂『縁』開設
少子高齢化・核家族化のなかお寺を身近に感じていて頂くため、地域のコミュニティーの場の提供を目的とし中東地区まちづくり協議会との連携を開始。
◎2022(年令和4年)
2階書院・瑞迦(ずいか)の間/岸駒(がんく)の間完成((佐伯岸駒(がんく)江戸時代の画家虎の絵は、有名である(虎龍絵)復刻))
◎2025(令和7年) 年8月19日放送
下関空襲の記憶と戦争遺構の取材をうける ( いまを戦前にさせない【戦後80年プロジェクト】/YouTube・KRY山口放送ニュース公式チャンネル)
◎2026(令和8年) 年1月 新納骨堂【香璋殿】増床完成
数々の歴史が交差する、歴史の交差点下関と共に歩み、創建以来700有余年この地を見守り続けています。
歴史の鼓動を感じて行かれませんか。
2025年11月教法寺住職釋和彦筆